前の同名記事
(前回の続き)
★神性に根ざした大義を常に持って生きよう
それで、どんな場面においても大切なことは、調和に至る大義を自分が見失わないことだよ。
今回の話のなかでは、ここが一番最重要なポイントなんだ。
それが人間間で見失われたとき、そこに感情と感情の摩擦やぶつかり合いが生じているからね。
たとえ相手がどんな意識境涯にあったとしても、自分自身が神性に根ざした大義を見失いさえしなければ、こちらが能動的に相手に働きかけたことに対して、たとえ相手が感情想念をむき出しにして挑んできたとしても、こちら側も一緒になって感情想念のドロ沼に沈み込むようなことにはならないんだよ。
ここが大事なとこなんだ。
自分の意識を神域に置いてさえいれば、周囲を巻き込んだ運命創造を行ううえで、過去のように、自分自身が相手と一緒になって、すれ違いや対立などの苦悩の波に入って溺れるようなことがなくなるんだよ。
そのためにはやっぱり、いつもの話になるけれど、日常の呼吸をユッタリとしたリズムで繰り返すように、意識的に自分自身に習慣づけることがいいんだよ。
そうしていると、知らぬ間に意識が神域の波動圏に入り込んでゆくから、どういうときにどういう対応をすればいいかなどの智恵が、生命の内奥から無限なる叡智として湧きあがってきて、瞬時の対応に生かせるようになるんだよ。
人が生きてゆくうえでは、何も思わず、何も言わず、なんの行動もしないでいながら、今ある状況をよりよい方向へ持ってゆくなんてことは出来っこないんだから、無関心に根ざした"見ざる・聞かざる・言わざる・行動せざる"の生き方はしないほうがいい。
不要なジャッジをしないという意味でなら、それらのあり方は役に立つけどね。
そのように、意識の用い方というのは、ときに深い配慮が必要なものなんだけど、一方では不必要な慮りである場合もあるんだ。
人は誰でも、それらの真理を実体験をとおして魂に濾過しつつ、みずからに蓄積してゆくことで、個人の運命創造の原理を学ぶと同時に、宇宙大の天地創造の原理をも思い出してゆくように設計されているんだよ。
それを違う角度から観れば、『生命の根源に誰もが元々持っている素養を思い出してゆくプロセス』という言い方もできるんだけどね。
いろいろ話したけれど、きみたちの同胞に先駆けた意識の進化(霊化)は、着実にその実を結びつつある。
日常のなかで出会う、十人十色・百人百様の経験を経ながらね。(終わり)