Voice of brothers 71 魂における幼少期を卒業するための集中講義(3)

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(前回の続き)

★魂における幼少期を卒業するために

で、ここからが本題なんだけど、「認められたい」って想いの在るべき出発点、望まれる発信源は、自分のしようとしていることがすでに出来上がっている、完成している、もしくは成就しているという神性認識の立ち位置なんだね。

他人(ひと)から認められる以前にそこに立って、みずからが自身を初めから認めて切っている意識を同時に発するといいんだよ。

その認める意識は、無理矢理そう思い込もうとするような浅い認知じゃなくて、顔に目鼻口耳が標準装備されてることが、鏡を見なくても当たり前にわかっているような気持ちで認めることだね。

それで、その想いが向かうべき角度・方向は、不完全から完全へ、未完成から完成へ向けるのではなく、また未成就から既成就を目指すのでもなく、その逆に、完全に成就した姿形や望まれる完成形を最初に心にアリアリと画いて、そのゴールから逆算して現在地へ戻って、そこから完全・完成・成就へ向かって、そこへ至る原因を積み重ねてゆくことがいいんだよ。

小さな子どもならいざ知らず、大人になったなら人は誰でも、他人(ひと)から認められることを望む以前に、まずはみずからが自身を認めることが重要なんだ。

今の自分がたとえ神性にもとると思えても、想念言行が立派でないと思えても、それは習慣性に流された氷山の一角というか、全生命のごく一部の現れでしかないんだから、ありのままのどんな自分も抱きしめて、あるがままの神性にひっくり返すことがいいんだよ。

そのために大切になってくるのが、そもそも人とはなんなのかっていう、真理の探究だよ。

そこで、今度は真理の観点からの確認だけど、人は創られたる被造物であると同時に、創っている側の造物主、神性意識の持ち主であることはわかるかな?

それでさっきも話したけど、一人の人の心の中には、認められたい側の想いがあると同時に、認めてあげる側の意識があることは理解できたかな?

このようにホントの視点からの現状認識を積み重ねたうえで、心に植えつけるべき大切な認識は、人は誰でも大人になったならば、自分が自分を認めてあげなければならないということだよ。

それは、他人(ひと)に要求すべき筋の話じゃないんだよ。

自分が自分を認められない人は、他人(ひと)からいくら認められたところで、それを覆して自己否定のホラ穴に潜ってしまうものなんだ。

こんなことはぼくらが言わなくても、自分や他人(ひと)のこれまでの生き方を振り返れば、人間アルアルでしょ。

この認識はね、想いの背筋ともいうべき大切なもので、自分の背骨を他人(ひと)に支えてもらわなければシャンとまっすぐ伸ばせないなんてのは、まったくもって論外だったって、自分に対して気づいて、外に愛を求めない魂の自立した意識を養うための重要な気づきを自身に与えるものなんだよ。(次回に続く)