(前回の続き)
★人の導き方について
それで、人の導き方について少し説明しておこうと思うんだけど、そうだなあ、自転車の乗り方を子どもに習得させようとする親の立場に立って考えてもらうとわかりやすいかも知れないね。
たとえば子供が自転車の乗り方を覚えようとしているときに、「かわいそう」「危なかしい」などの見守りの所感をもって見ているにしても、だからといって、いつまでも親がハンドルを一緒に握ってコントロールしてあげてたり、後ろから押してあげたりしていたなら、その子はいつまで経っても自分の力で自転車を乗りこなすことができないままでしょ。
それと同じだよ。
きみたちに今必要なのは魂の自立であって、他者への依存心を強めることじゃない。
もしも地球上で、未だにそんな導き方をしている宗教指導者やスピリチュアルリーダーがいたなら、その人は偽者だよ。
そういう人たちの心のなかには、自分の能力を誇示して衆人の注目を集めたいとか、楽してお金儲けをしたいとか、人々の上に立って振舞いたいとか、何かしらの不純な動機があってそうしてることがほとんどなんだよ。
それがたとえ、どんなに名のとおった誰もが知るような人物であるとしてもね。
だから、自分に頼らせようとか、自分を通さなきゃよくならないとか考えている人は、真のリーダーとはいえないんだ。
また、「自分の宗教じゃなければ世界は救えない」なんて心の狭いことを真面目に考えて、それを普及しようとしてる人たちも真のリーダーたり得ない。
真のリーダーとは、人々がそれぞれの生き方をとおして、真実に魂の自立を果たせるよう導くものだからね。
特に人間が人間を導くという場面では、自分に頼らせたり、依存させたりするような導き方は、20世紀までならいざ知らず、21世紀に入った今となっては、まったく通用しない過去の指導者像になっているんだよ。
だからぼくたちは、地球上の過去の精神指導者たちのように、「神仏を信じなさい」とは言わないし、「神仏に帰依せよ」とも言わない。
「みんなが命活き活きと、《いのちの光》を発揮して生きるんだよ。きみたちの生命の本質は元々神性の存在なんだよ。それを顕して生きる方法はこれこれだよ」って言い方をしてるでしょ。
神とか仏とかいうと、人間の固定観念として、「天にまします全知全能の神よ……」みたいな思い方になって、「救われたい、救われよう、救ってもらおう」みたいに、他者依存的な想い方をしてしまいがちになってしまうからね。
それに、神仏の名前によって、流派争いみたいなのが、繰り返し起こったりもしてきたからね。
大切なことは、人は誰でも神性の存在で、永遠の生命を生きている存在だってこと。
それで、その生命の永遠性をみずからに顕すことなんだ。
その根本さえ外さなければ、どんな流派だってかまいはしないんだよ。
生命の本質というか、いのちの大元がおんなじだってわかれば、どんな流派の宗教信仰者もスピリチュアリストも、精神思想の持ち主も、誰もが手をつなぎ協力し合って、互いを右翼だの左翼だの言わないで、みんなが“なかよく”地球平和のために働くことができるでしょ。
だから単純に言ってしまえば、みんながいのちの本質に帰一して生きさえすれば、互いが思想の違いを乗り超えて、沈みかけの船のような地球のあり方を修復して(余計な水をかき出して)、未来への航海をつづけてゆくことができるんだよ。(次回に続く)